西法寺沿革
加賀国能美郡大垣(石川県小松市)の佐々木忠光が、本願寺第八世蓮如に帰依して出家し、法名を蓮教(あるいは教円)と名のり、同地に一宇を建立したのが西法寺のはじまりである。
その後、日本海航路を辿って男鹿の脇本を経て、明応8(1499)年には土崎湊本町に堂宇を建立した。やがて佐竹氏の時代を迎え、慶長18(1613)年に久保田城下の寺町に移転した。安永年間(1772−1780)には、壇徒で藩家老疋田定常の計らいにより、十三世俊令が藩主祈願寺一条院の跡地を譲り受け、新たに堂宇を建立した。
文政2(1819)年、藩主佐竹義厚(よしひろ)から寺領二人扶持を拝領し、また、嘉永2(1849)年には、西法寺境内地(龍泉寺の隣)に東本願寺学寮が設置され、羽後地域における東本願寺の拠点としての役割を担った。
十六世雲窠は名を海梁と称し、霊津・皆令と号して奥山君鳳に詩文を学び南画に親しんだ。文久元(1861)年18歳の平福穂庵(角館出身の日本画家)の画才を見抜き京都へ同行したが、その翌年旅先の長崎で急逝した。
明治戊辰戦争では境内に藩の徴兵稽古場が設けられ、その後人見正吉校長の寺町学校が設けられた。また、戊辰戦争時には、逃げ延びてきた官軍の兵士2名が境内の柳に登り難を逃れたという。
明治19(1886)年の俵屋火事で焼失したが、昭和2(1927)年に門信徒のご懇念により再建された。再建された本堂の襖には橘小夢(秋田市出身の挿絵画家)の松の絵一対が描かれている。
宗旨
【宗派名】真宗大谷派
【本山】東本願寺(真宗本廟:京都市下京区烏丸通七条上る常葉町754番地)
【宗祖】親鸞聖人
【本尊】阿弥陀如来
【正依の経典】仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
【宗祖の主著】顕浄土真実教行証文類(教行信証)